公平な通行空間

生活道路の議論に欠けているのは、公平の哲学だろうと思う。

交通事故対策の対象としての生活道路対策には、事故被害の観点から弱者である歩行者や自転車を保護することが重要であり、自動車の速度抑制が効果的となる。特に事故の多いのは交差点であり、交差点進入速度をおとし一時停止を確実にすることが最善手であろう。

いっぽうで、生活道路を通行空間としてとらえたとき、同様に弱者の立場から安心して歩ける道にしたいという願いがある。自動車と通行空間を分離し、自分たちだけの専用の空間がのぞまれるのだろう。とはいえ、我が国には道路が狭く歩車分離が難しい道路はあまたある。こうした空間において、歩行者はいつも自動車からしいたげられてきた。こうした強者と弱者(加虐と被虐)の関係性があるにもかかわらず、この視点はずっと放置されてきたように思う。

***

歩行者の通行空間でも、体躯の大きさや性別・年齢等によって、道を譲る側が決まる悲しい現実がある。どこでも通行権をめぐる小さな戦いがあり、それに常勝していることに気がつかない人もいれば、日々疲弊している人もいる。もちろん、通行空間上の人同士のコンフリクト回避における「しぐさ」には、ゆずりあいのコミュニケーションもあるだろう。ただ「一方的な威嚇やうばいあいがないほどに」ということではない。

さて、これまで通行空間のデザインには、さまざまな価値地間が盛り込まれてきた。冒頭の交通安全の視点では、歩道や横断歩道の確保もあるし、クルマ社会に対する批判から、公共交通や自転車、さらには歩行者を優先する視点もあろう。最近では、人の賑わいをつくり、商業的な通りの価値を高めるという視点もある。もちろん、商業地区だけでなく住宅地でも介護や通販のための車両通行や駐車の需要を満たすべき、といった視点もある。さらには生活道路を生活空間や商業空間と考えて、通行以外の活動に使えるようにしようという視点もあろう。

さまざまな視点から、生活道路のあるべき姿が論じられているが、そこには、そもそもよりプリミティブな公平性の視点があるべきではないだろうか。

***

強い者と弱い者がうまれてしまう通行空間において、それを調整することが、通行空間上のルールに求められるべき事ではないだろうか。弱者だから保護すべき、ではなく、そもそも強者と弱者の関係をなくしていく、公平にすることができないか。

幅員が狭く歩車道が分離できないとき、その空間を公平性を保ったままシェアすることはできないのか。

シェアするためには、1)交通主体同士が公平で、2)その間にコミュニケーションがあり、3)それは戦いではなくゆずりあいであること、が必要ではないか。

そして、その3点が自然に発生するような「ルールと空間」が必要ではないか。

私たちは、それを考えなければならない。

***

我が国には歩行者保護を前提とした道路交通法によって、歩行者の通行権が保証されている。横断歩道で止まらない自動車が問題になることが、道交法違反の観点から問題視されてきた。こうした論調は、歩行者と自動車の戦火に油を注いでいるのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です