子どもの安全はどう守られているか

雪の日でも地域の方々の交通安全の活動が休むことはありません

朝、小学校の校門前や通学路を守るために道路に立ってくださっている人たちがいます。それは先生だったり保護者だったり地域の方々であったりします。そこで、危険な自動車(時には自転車)から、こどもたちの通学の安全を守ってくださっています。

もちろん、朝だけでなく下校時もかもしれません。学校から離れた場所かもしれません。また、交通安全だけでなく、防犯や転落防止など、子どもの安全や育ちを支えようとさまざまな取組みがあります。

そうして、日本の多くのこどもたちは、小学一年生から子どもだけで歩いて小学校に通うことができています。多くの先進国では、これが普通ではありません。世界的にみても稀な状況にあります。

他の先進国では、親の送迎によって多くの子どもたちが通学しています。登校も下校も、です。親の負荷はたいへんなものになりますから、登下校時には学校周辺に送迎の自動車が発生します。

イギリスの通学風景

日本では、少子化や財政面の要請から学校統廃合が進んでいます。もともと、人口密度が低く遠距離通学を必要とするルーラルなエリアでのスクールバスがありましたが、それが拡大していく傾向もあります。いろいろな地域のいろいろな通学があり、いろいろな地域の方々の支援で通学は成り立っているのです。

イタルダインフォーメーション交通事故分析レポートNo.116によると、歩行中の交通事故資料者数を1歳別でみると、7才に大きなピークが現れることが示されています。日本の子どもたちが、小学1年生になると自分たちで学校に通い始めるという希有な状況は、決して問題がないとは言えません。

1歳別歩行中の交通事故死傷者数
イタルダインフォーメーション交通事故分析レポートNo.116より

子どもの不慮の事故の発生傾向~厚生労働省「人口動態調査」より~(令和3年度子供の事故防止に関する関係府省庁連絡会議令和4年3月23日消費者庁消費者安全課)をみると、5〜9才の子どもの死因の2位は不慮の事故(1位は悪性新生物)であり、その内訳を見ると1位が交通事故で45%となります。

子どもの不慮の事故の発生傾向~厚生労働省「人口動態調査」より~(令和3年度子供の事故防止に関する関係府省庁連絡会議令和4年3月23日消費者庁消費者安全課)

家庭外での死因の多くは交通事故です。もちろん家庭内事故も見過ごせるわけではありませんが、子どもの安全を守るといったとき、外で歩いている時の危険は大きく、それを誰がどのようにして守るのか、ということは原点として、いつもたちかえるべきです。

道路・交通を考える立場の人間は、いまどんな事故が多いのか、どんな場所で、どんな状況で、などを考え、交通事故対策をすすめてきました。事故統計をもとに、なかなか事故が減らない、むしろ増えている、そうした事故をみつけて、対策が進んでいないところに手を伸ばしていく、ということを続けてきました。まだまだ事故はあり、十分ではない者の、交通戦争と呼ばれる状況を脱して、一定の安全が保たれてきています。

一方で、子どもの安全を守りたい、という立場からすれば、目の前にある地域の子どもの通学を見守るところから始まります。家庭外でおきる事故ですから、それを保護者だけでなく、さまざまな人たちが、そこに参画して、それを成し遂げようとしています。そのとき、それが通学に大きくフォーカスをあて、すべての子どもが安全に学校に通うことができるよう支援がなされていて、それによって事故が防がれている状況は、事故統計にはあらわれません。

この点は、他の種類の交通事故と大きく違っています。交通事故対策は、道路を整備するだけではなく、そうした子どもたちを守ろうとする活動による部分を意識しなければなりません。

通学以外の事故対策が手薄になっていることは課題です。「令和2年交通安全白書」における「令和元年度 交通事故の状況及び交通安全施策の現況 特集 「未就学児等及び高齢運転者の交通安全緊急対策について」 第1章 子供及び高齢運転者の交通事故の状況 第2節 子供の交通事故の状況」から、「第31図 小学生歩行中の時間帯別死者・重傷者数」をみると、朝にも小さなピークがありますが多くの重大事故は15〜17時台です。「第32図 小学生歩行中の通行目的別死者・重傷者数」をみると、登校時は10%、下校時は22%ですから、それ以外の7割弱の歩行中の重大事故の対策も考える必要があります。

特集-第31図 小学生歩行中の時間帯別死者・重傷者数(平成27年~令和元年合計)。15時台~17時台にかけて死者・重傷者数が多い
令和2年 交通安全白書 第31図 小学生歩行中の時間帯別死者・重傷者数
特集-第32図 小学生歩行中の通行目的別死者・重傷者数(平成27年~令和元年合計)。下校、遊戯の割合が高い
令和2年 交通安全白書 小学生歩行中の通行目的別死者・重傷者数 

そもそも、子どもは大人以上にヒューマンエラーを起こしやすい存在です。学校や保護者を通じた交通安全教育や見守りをして、子どもの安全を守っているのです。思いもよらぬ突発的な行動が事故原因であったりします。(実際に、子どもは飛び出し事故が非常に多い。)道路側に問題があるという前提で事故統計から考える大人の事故対策のアプローチ、通学路の安全を守るという考えは、何かちがうものをみている可能性すらあると思います。

もうひとつの課題は、通学の安全を守る活動そのものも手薄になりつつあります。地域の方々は人口減少と高齢化とで人手が不足し、保護者の共働きは増加し、学校の先生の熱意に支えられてきた部分も、働き方の改革が求められています。通学路の安全を守ると言ったとき、この困難をどうサポートするのか、という視点がなければ地元は受け入れられないのではないでしょうか。

毎朝、子どもの安全をまもっていただいています

この学校・保護者・地域による人的な交通安全活動をほうっておけば、30%強の通学中の事故の割合が増えるのかもしれませんし、対策として、自動車による親の送迎がますます増えるのかもしれません。

生活道路・通学路の事故対策をしようと言うとき、どこに困難があり、どこに手を差し伸べるべきか。それは事故の多い少ないだけで判断できるのか。よく考えるべきでしょう。

LOOK RIGHT

イギリスの横断歩道で驚くのは、とにかく信号無視が多いこと。実は信号を守る義務がないようです。(ちなみに横断歩道の前後にある横断禁止の道路標示もあまり守られている様子がないですね。)日本では、子どもの頃から横断してはいけないという教育を受けるので、少し大きな道路になると横断=違法という感覚があるのではないでしょうか。その目から見ると、おお、これは!という感じがします。

おそらく、イギリスでも日本と同様に歩行者の横断中の交通事故はおきていると思います。そこで無信号横断歩道には白黒のゼブラの棒の上に黄色く輝く球が輝き、中央には島があり、ブリンカーがある。そして、もちろん、横断歩道そのものがハンプになっているところも多い。ドライバーは、信号があれば必ず守らなければならないのと同じように、無信号横断歩道では歩行者に道を譲らなければならない。ドライバーに対しては、横断歩道で止まらない=違法という感覚がありそうです。

ところで、ロンドンの横断歩道のわたりはじめに「LOOK RIGHT」の文字があります。横断しようとする歩行者に「右をみろ」と指示をする。クルマをみろ、ということです。ちなみに、信号のある横断歩道でも書いてありました。信号を守れ、ではなく、クルマを見ろ、です。

ちなみに、LOOK RIGHTだけでなく、LOOK LEFTもLOOK BOTH WAYSもあります。一方通行の道路、横断途中にある島、それぞれの場所で、右か左か異なる。だから、場所に応じて、右を見るのか、左を見るのか、両方をみるのか、わかるように書いてある。右左右を見なさい、という汎用性のあるの指示ではありません。

私のような下ばかり見て歩いている歩行者が、道路を横断しようとする時、一番に伝えることはなにか。それを端的に表していると思います。じつに親切。

歩行者”青”の横断歩道を横断中の子どもが事故にあうニュースがありました。ドライバーを非難する声が上がり、その個人属性が事故原因であるかのうような報道がなされているのではないでしょうか。(そして、しばらくすると忘れられるのでしょう。)青信号は安全でなければならない、そんなことはあたりまえであるから、ミスした人間に罪がある。それで解決。あとは、わすれることができる。

誰であろうと、人はミスをする。事故を防ぐためのさらなる一手二手を打たなくてはならない。ミスをした人を非難し、自分ではない誰かのせい、として頭の中で整理することはできても、現実の事故は無くせない。

もう一度書きますが、誰であろうと、人はミスをします。だから、私はミスがありうる前提で身を守る交通安全教育を訴えています。子どもたちに横断の仕方を教える時に、いつもクルマを見なさいと伝えるようにしています。信号は守りなさい、でも、信じてはいけない。信号があっても、クルマが来ていないことを確認しなさいと話す。信号が何色だろうと、ひかれてしまっては、もう取り返しがつかないのだから。

それでも、子どもは(大人もですが)ミスをします。大人がいつも見守れるわけではありません。クルマを見なさい、と道路が教えてくれたらよいのに、と「LOOK RIGHT」をみて思うのです。

それともうひとつ。

ドライバーのミスを予防する一手が必要です。イギリスの横断歩道を見てしまうと、我が国の横断歩道の以下に貧弱なことか。だからこそ、横断歩道にデバイスの設置をお願いしたいのです。たとえば横断歩道に狭さくを組み合わせれば、横断しようとする歩行者を視認しやすくなります。横断歩道にハンプを組み合わせれば、自然とブレーキに足が移行しやすくなり、ドライバーのミスは減ります。こんなあたりまえのドライバーへの注意喚起があるのに、躊躇しないでほしい、と強く思います。

もう一手の、安全を実現するためのデバイス設置へのご理解を。

通行空間をシェアするための条件

エスカレータの片側空けが問題となって、キャンペーンが始まった頃のできごと。都市・交通分野の専門家が集まる研究会での雑談。

「東京の地下鉄で子どもと手をつないで横並びでエスカレーターにのると、後ろからチッって言われるんですよ。名古屋の地下鉄だとそんなことないんですけどね。東京のエスカレーターは戦場ですよ。」
「なに言ってんですか。そのかわり名古屋は道路(車道)が戦場じゃない。僕らからすると、名古屋でクルマの運転はできないよ。」

やや、言いすぎではないかと思わなくはないが、ちょっと東京にはないような多車線道路で車線変更に苦労をされたのかもしれない。

とはいえ、なぜ通行空間が戦場になるのか。私たちは、通行する他者に対して腹が立ったりする。自分の通行の安全を守るため、他者を威圧したりする。急いでいると余計にそうなるのかもしれない。通行区間の権利をめぐる戦いは、生き物としての本能なのかもしれない。

進行方向の異なる人がまざりあう状況下で、通行空間の割に交通量が増えてくると、交錯が発生する。(進行方向が同じでも密度が高くなると、個々の多少の速度の違いによって歩きにくくなり、不快になり、時には将棋倒しのような危険が発生する。)速度のでる自転車、動力を持った自動車などの車両が含まれれば、事故の危険性が高まる。雑に一般化すると、密度と多様性の関数で、通行空間は戦場となる。

空間を構造か規範(ルール)か、その両方かによって、通行を区分して流れを整えることや、交通量そのものをコントロールすることが必要になる。こうして、皆さんがご存じの通行空間ができあがる。

一方で、シェアドスペースという道路空間設計の一手法がある。有名なものとして、オランダのモンデルマン氏が提唱する者で、道路上の構造や規範をなくし、互いがコミュニケーションをしたら、かえって事故が減るという考えである。見通しの良い空間にしてルールで与えられる通行権をなくすこと、交通主体それぞれが注意しあうこと、そして互いに協調することで、密度と多様性の関数の形は変わるだろう。それで対応可能な密度と多様性の範囲であれば、実にうまいやり方だと思う。

モンデルマン氏のシェアドスペースに限らず、自動車・歩行者などが混在する空間という意味でのシェアドスペースは、もともと欧米の市街地中心部によくあるにぎわいある道によくみられる。標識には「SHARED」 の文字が出てくることもある。

ここで、シェアドスペースが成立する条件を考えよう。

そのひとつは、流入量のコントロールである。道路は車両にとって走りにくく、通過交通にとっては選択したくないようにしつらえることで、通過交通を排除すること。荷捌き等も考えて自動車が使える時間帯区分の検討もポイントだろう。もちろん、歩く人が多ければ走りにくくなるわけだが、歩く人がいなくなったらどうなるの?と考えると、何らかのデバイスは必要であろうと思う。(歩行者をデバイスにしちゃアカンでしょう。)

もうひとつは、それぞれの注意と協調である。これは、すべての交通主体に求められる。歩行者が優先される空間がシェアドスペースではない。

日本では、より強く歩行者が保護されているためだろうか、繁華街での歩きスマホなど、歩行者の注意力が高まらない問題がある。コミュニケーションを忌避する傾向にあると思う。つまり、歩行者が優先されることも取り除かなければ、我が国でのシェアドスペースは成立しないのではないだろうか。

シェアは、分け合うという意味で、均等でなくてもよいだろう。もちろんジャイアン的な横暴(おまえのモノも、オレのモノ)はNGだが、ルールによって与えられる弱者に対する保護や権利で成立するモノでもない。すべてが平等公平で民主的な空間で、争いのない分け合い方の合意がされれば良いのだろうと思う。

デバイスによる線・面対策ついて

ティファニーでスムーズ横断歩道を

デバイスとは、道路の静穏化や安全対策において、道路上に自動車の通行を阻害するものを設置して、速度を落とさせたり、一時停止を促したり、通行そのものをできなくするものです。

よって、道路側から、クルマの運転を制御できることが求められます。かっ飛ばして走りたいというドライバーの意思通りに通行できるようなものは、意味がありません。車が走りにくくなるという苦情がよせられますが、そもそも、そういうものです。走りやすいデバイスは、存在意義なしです。

デバイスのバリエーションについては割愛しますが、そのなかでもハンプは最強です。我が国において、確実な速度抑制効果が得られるデバイスは、他にありません。これは本当です。

海外の狭さく事例ですが、これでも慣れたドライバーは飛ばしてます。衝撃ですね。

もうひとつ、大事なこととして、ハンプなどの多くのデバイスは点で設けるものとなります。そして、理屈としては、点で設けられたデバイスの効果は、点(その影響の及ぶ短い区間)でしか及びません。よって、交差点や横断歩道の手前など、速度を落とさせたり一時停止を促すことが求められるところに置くべきです。

学校の校門前に設置するスムーズ横断歩道が象徴的な例ですが、交差点や横断歩道など、点に対して行う交通安全対策に、デバイスは使われて良いはずです。

幹線道路の交差点から少し入った抜け道になりそうな場所にありました

ただし、単路での単発のデバイスは問題があります。速度抑制を目指してもその効果が得られるのは短い区間でしかありません。単発のデバイスで、路線全体の速度抑制ができるなんてことはない、と考えてください。

しかも、さらに問題があります。デバイス通過後にアクセルがふまれ、再加速音がでます。また、飛ばしたい気持ちを抑えられないドライバーが、デバイスに高速でつっこんでしまうこともあります。音や衝撃の問題は、ハンプの場合でよく知られているけれども、ドライバーの希望する速度とデバイスによる抑制速度の差が大きければ、原理的には、どのデバイスでも再加速音は発生する。ハンプで再加速音が問題になりがちなのは、むしろ速度抑制効果が高いからこそです。

点のデバイスを用いて、ある程度の距離のある区間(=路線)対策効果を得ようとすれば、「デバイスは連続設置をすることが基本」となります。大事なことなのでもう一度いうが「連続設置が基本」です。ある区間(路線)に効果を与え続けるデバイスとしてスラロームがありますが、これはシケインや片側狭さくを連続設置したものとも言えます。

単路に連続設置されたハンプ
こちらも連続設置されています

デバイスをひとつおいたくらいで、特定の路線の通過交通対策にはなりません。地区(エリアやゾーン)全体の安全対策を目指すのであれば、なおさらです。

走りにくさを生み出す「点のデバイス」の効果を「線や面」に広げようとするのであれば、その路線や地区が、自動車の自由な通行が望まれていない道路であることをドライバーに伝え、理解させることで、ドライバーの運転そのものを変える必要があります。その証拠に、小学校校門前のスムーズ横断歩道で、単騎のハンプの問題が起きにくいのは、そこが速度を落とすべき場所であることがドライバーに理解できるからです。

言い換えると、小学校校門前の事例のようなゆっくり走る意味が伝わる置き方なら、より効果の範囲が広がるかもしれませんが、デバイスがひとつあることで、ゾーンの安全が高まることはなく、それ以外の路面表示や注意喚起看板などが総合的に機能していると考える方が理屈に合います。

線や面で効果を得たいのであれば、「デバイスの連続設置」と「運転をかえる工夫」が必要です。入口での対策(入口部のデバイス・かんばん)や、路面の工夫でもよい。デバイスと景観舗装の組み合わせもよいと私は思う。どちらかだけでは、効果がうすいのです。

何度も言いますが、デバイスを1つおいて、それだけで戦えというのは、無理があります。宇宙怪獣が群れになって各国の都市を攻撃している状態に、ウルトラマンひとりで地球を守れと言っているようなもんでしょう。

単発でデバイスだけをおくようなことをして、効果が得られるわけではありません。単発でデバイスを置いて、地区全体の速度抑制効果を得たいなら、地区全体の取組が必須となります。 もちろん、効果的なデバイスでなければしょうがない。

走りにくいかもしれませんが、クルマの通行を制御することが目的です。
幅の広い道路で多少くねらせても効果はありません。

面的な交通規制を組み合わせているじゃないか、という反論はありえますが、あえて言えば、単騎のデバイスと面的な速度規制だけで十分ですか?

公平な通行空間

生活道路の議論に欠けているのは、公平の哲学だろうと思う。

交通事故対策の対象としての生活道路対策には、事故被害の観点から弱者である歩行者や自転車を保護することが重要であり、自動車の速度抑制が効果的となる。特に事故の多いのは交差点であり、交差点進入速度をおとし一時停止を確実にすることが最善手であろう。

いっぽうで、生活道路を通行空間としてとらえたとき、同様に弱者の立場から安心して歩ける道にしたいという願いがある。自動車と通行空間を分離し、自分たちだけの専用の空間がのぞまれるのだろう。とはいえ、我が国には道路が狭く歩車分離が難しい道路はあまたある。こうした空間において、歩行者はいつも自動車からしいたげられてきた。こうした強者と弱者(加虐と被虐)の関係性があるにもかかわらず、この視点はずっと放置されてきたように思う。

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歩行者の通行空間でも、体躯の大きさや性別・年齢等によって、道を譲る側が決まる悲しい現実がある。どこでも通行権をめぐる小さな戦いがあり、それに常勝していることに気がつかない人もいれば、日々疲弊している人もいる。もちろん、通行空間上の人同士のコンフリクト回避における「しぐさ」には、ゆずりあいのコミュニケーションもあるだろう。ただ「一方的な威嚇やうばいあいがないほどに」ということではない。

さて、これまで通行空間のデザインには、さまざまな価値地間が盛り込まれてきた。冒頭の交通安全の視点では、歩道や横断歩道の確保もあるし、クルマ社会に対する批判から、公共交通や自転車、さらには歩行者を優先する視点もあろう。最近では、人の賑わいをつくり、商業的な通りの価値を高めるという視点もある。もちろん、商業地区だけでなく住宅地でも介護や通販のための車両通行や駐車の需要を満たすべき、といった視点もある。さらには生活道路を生活空間や商業空間と考えて、通行以外の活動に使えるようにしようという視点もあろう。

さまざまな視点から、生活道路のあるべき姿が論じられているが、そこには、そもそもよりプリミティブな公平性の視点があるべきではないだろうか。

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強い者と弱い者がうまれてしまう通行空間において、それを調整することが、通行空間上のルールに求められるべき事ではないだろうか。弱者だから保護すべき、ではなく、そもそも強者と弱者の関係をなくしていく、公平にすることができないか。

幅員が狭く歩車道が分離できないとき、その空間を公平性を保ったままシェアすることはできないのか。

シェアするためには、1)交通主体同士が公平で、2)その間にコミュニケーションがあり、3)それは戦いではなくゆずりあいであること、が必要ではないか。

そして、その3点が自然に発生するような「ルールと空間」が必要ではないか。

私たちは、それを考えなければならない。

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我が国には歩行者保護を前提とした道路交通法によって、歩行者の通行権が保証されている。横断歩道で止まらない自動車が問題になることが、道交法違反の観点から問題視されてきた。こうした論調は、歩行者と自動車の戦火に油を注いでいるのかもしれない。