通行空間をシェアするための条件

エスカレータの片側空けが問題となって、キャンペーンが始まった頃のできごと。都市・交通分野の専門家が集まる研究会での雑談。

「東京の地下鉄で子どもと手をつないで横並びでエスカレーターにのると、後ろからチッって言われるんですよ。名古屋の地下鉄だとそんなことないんですけどね。東京のエスカレーターは戦場ですよ。」
「なに言ってんですか。そのかわり名古屋は道路(車道)が戦場じゃない。僕らからすると、名古屋でクルマの運転はできないよ。」

やや、言いすぎではないかと思わなくはないが、ちょっと東京にはないような多車線道路で車線変更に苦労をされたのかもしれない。

とはいえ、なぜ通行空間が戦場になるのか。私たちは、通行する他者に対して腹が立ったりする。自分の通行の安全を守るため、他者を威圧したりする。急いでいると余計にそうなるのかもしれない。通行区間の権利をめぐる戦いは、生き物としての本能なのかもしれない。

進行方向の異なる人がまざりあう状況下で、通行空間の割に交通量が増えてくると、交錯が発生する。(進行方向が同じでも密度が高くなると、個々の多少の速度の違いによって歩きにくくなり、不快になり、時には将棋倒しのような危険が発生する。)速度のでる自転車、動力を持った自動車などの車両が含まれれば、事故の危険性が高まる。雑に一般化すると、密度と多様性の関数で、通行空間は戦場となる。

空間を構造か規範(ルール)か、その両方かによって、通行を区分して流れを整えることや、交通量そのものをコントロールすることが必要になる。こうして、皆さんがご存じの通行空間ができあがる。

一方で、シェアドスペースという道路空間設計の一手法がある。有名なものとして、オランダのモンデルマン氏が提唱する者で、道路上の構造や規範をなくし、互いがコミュニケーションをしたら、かえって事故が減るという考えである。見通しの良い空間にしてルールで与えられる通行権をなくすこと、交通主体それぞれが注意しあうこと、そして互いに協調することで、密度と多様性の関数の形は変わるだろう。それで対応可能な密度と多様性の範囲であれば、実にうまいやり方だと思う。

モンデルマン氏のシェアドスペースに限らず、自動車・歩行者などが混在する空間という意味でのシェアドスペースは、もともと欧米の市街地中心部によくあるにぎわいある道によくみられる。標識には「SHARED」 の文字が出てくることもある。

ここで、シェアドスペースが成立する条件を考えよう。

そのひとつは、流入量のコントロールである。道路は車両にとって走りにくく、通過交通にとっては選択したくないようにしつらえることで、通過交通を排除すること。荷捌き等も考えて自動車が使える時間帯区分の検討もポイントだろう。もちろん、歩く人が多ければ走りにくくなるわけだが、歩く人がいなくなったらどうなるの?と考えると、何らかのデバイスは必要であろうと思う。(歩行者をデバイスにしちゃアカンでしょう。)

もうひとつは、それぞれの注意と協調である。これは、すべての交通主体に求められる。歩行者が優先される空間がシェアドスペースではない。

日本では、より強く歩行者が保護されているためだろうか、繁華街での歩きスマホなど、歩行者の注意力が高まらない問題がある。コミュニケーションを忌避する傾向にあると思う。つまり、歩行者が優先されることも取り除かなければ、我が国でのシェアドスペースは成立しないのではないだろうか。

シェアは、分け合うという意味で、均等でなくてもよいだろう。もちろんジャイアン的な横暴(おまえのモノも、オレのモノ)はNGだが、ルールによって与えられる弱者に対する保護や権利で成立するモノでもない。すべてが平等公平で民主的な空間で、争いのない分け合い方の合意がされれば良いのだろうと思う。

デバイスによる線・面対策ついて

ティファニーでスムーズ横断歩道を

デバイスとは、道路の静穏化や安全対策において、道路上に自動車の通行を阻害するものを設置して、速度を落とさせたり、一時停止を促したり、通行そのものをできなくするものです。

よって、道路側から、クルマの運転を制御できることが求められます。かっ飛ばして走りたいというドライバーの意思通りに通行できるようなものは、意味がありません。車が走りにくくなるという苦情がよせられますが、そもそも、そういうものです。走りやすいデバイスは、存在意義なしです。

デバイスのバリエーションについては割愛しますが、そのなかでもハンプは最強です。我が国において、確実な速度抑制効果が得られるデバイスは、他にありません。これは本当です。

海外の狭さく事例ですが、これでも慣れたドライバーは飛ばしてます。衝撃ですね。

もうひとつ、大事なこととして、ハンプなどの多くのデバイスは点で設けるものとなります。そして、理屈としては、点で設けられたデバイスの効果は、点(その影響の及ぶ短い区間)でしか及びません。よって、交差点や横断歩道の手前など、速度を落とさせたり一時停止を促すことが求められるところに置くべきです。

学校の校門前に設置するスムーズ横断歩道が象徴的な例ですが、交差点や横断歩道など、点に対して行う交通安全対策に、デバイスは使われて良いはずです。

幹線道路の交差点から少し入った抜け道になりそうな場所にありました

ただし、単路での単発のデバイスは問題があります。速度抑制を目指してもその効果が得られるのは短い区間でしかありません。単発のデバイスで、路線全体の速度抑制ができるなんてことはない、と考えてください。

しかも、さらに問題があります。デバイス通過後にアクセルがふまれ、再加速音がでます。また、飛ばしたい気持ちを抑えられないドライバーが、デバイスに高速でつっこんでしまうこともあります。音や衝撃の問題は、ハンプの場合でよく知られているけれども、ドライバーの希望する速度とデバイスによる抑制速度の差が大きければ、原理的には、どのデバイスでも再加速音は発生する。ハンプで再加速音が問題になりがちなのは、むしろ速度抑制効果が高いからこそです。

点のデバイスを用いて、ある程度の距離のある区間(=路線)対策効果を得ようとすれば、「デバイスは連続設置をすることが基本」となります。大事なことなのでもう一度いうが「連続設置が基本」です。ある区間(路線)に効果を与え続けるデバイスとしてスラロームがありますが、これはシケインや片側狭さくを連続設置したものとも言えます。

単路に連続設置されたハンプ
こちらも連続設置されています

デバイスをひとつおいたくらいで、特定の路線の通過交通対策にはなりません。地区(エリアやゾーン)全体の安全対策を目指すのであれば、なおさらです。

走りにくさを生み出す「点のデバイス」の効果を「線や面」に広げようとするのであれば、その路線や地区が、自動車の自由な通行が望まれていない道路であることをドライバーに伝え、理解させることで、ドライバーの運転そのものを変える必要があります。その証拠に、小学校校門前のスムーズ横断歩道で、単騎のハンプの問題が起きにくいのは、そこが速度を落とすべき場所であることがドライバーに理解できるからです。

言い換えると、小学校校門前の事例のようなゆっくり走る意味が伝わる置き方なら、より効果の範囲が広がるかもしれませんが、デバイスがひとつあることで、ゾーンの安全が高まることはなく、それ以外の路面表示や注意喚起看板などが総合的に機能していると考える方が理屈に合います。

線や面で効果を得たいのであれば、「デバイスの連続設置」と「運転をかえる工夫」が必要です。入口での対策(入口部のデバイス・かんばん)や、路面の工夫でもよい。デバイスと景観舗装の組み合わせもよいと私は思う。どちらかだけでは、効果がうすいのです。

何度も言いますが、デバイスを1つおいて、それだけで戦えというのは、無理があります。宇宙怪獣が群れになって各国の都市を攻撃している状態に、ウルトラマンひとりで地球を守れと言っているようなもんでしょう。

単発でデバイスだけをおくようなことをして、効果が得られるわけではありません。単発でデバイスを置いて、地区全体の速度抑制効果を得たいなら、地区全体の取組が必須となります。 もちろん、効果的なデバイスでなければしょうがない。

走りにくいかもしれませんが、クルマの通行を制御することが目的です。
幅の広い道路で多少くねらせても効果はありません。

面的な交通規制を組み合わせているじゃないか、という反論はありえますが、あえて言えば、単騎のデバイスと面的な速度規制だけで十分ですか?

公平な通行空間

生活道路の議論に欠けているのは、公平の哲学だろうと思う。

交通事故対策の対象としての生活道路対策には、事故被害の観点から弱者である歩行者や自転車を保護することが重要であり、自動車の速度抑制が効果的となる。特に事故の多いのは交差点であり、交差点進入速度をおとし一時停止を確実にすることが最善手であろう。

いっぽうで、生活道路を通行空間としてとらえたとき、同様に弱者の立場から安心して歩ける道にしたいという願いがある。自動車と通行空間を分離し、自分たちだけの専用の空間がのぞまれるのだろう。とはいえ、我が国には道路が狭く歩車分離が難しい道路はあまたある。こうした空間において、歩行者はいつも自動車からしいたげられてきた。こうした強者と弱者(加虐と被虐)の関係性があるにもかかわらず、この視点はずっと放置されてきたように思う。

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歩行者の通行空間でも、体躯の大きさや性別・年齢等によって、道を譲る側が決まる悲しい現実がある。どこでも通行権をめぐる小さな戦いがあり、それに常勝していることに気がつかない人もいれば、日々疲弊している人もいる。もちろん、通行空間上の人同士のコンフリクト回避における「しぐさ」には、ゆずりあいのコミュニケーションもあるだろう。ただ「一方的な威嚇やうばいあいがないほどに」ということではない。

さて、これまで通行空間のデザインには、さまざまな価値地間が盛り込まれてきた。冒頭の交通安全の視点では、歩道や横断歩道の確保もあるし、クルマ社会に対する批判から、公共交通や自転車、さらには歩行者を優先する視点もあろう。最近では、人の賑わいをつくり、商業的な通りの価値を高めるという視点もある。もちろん、商業地区だけでなく住宅地でも介護や通販のための車両通行や駐車の需要を満たすべき、といった視点もある。さらには生活道路を生活空間や商業空間と考えて、通行以外の活動に使えるようにしようという視点もあろう。

さまざまな視点から、生活道路のあるべき姿が論じられているが、そこには、そもそもよりプリミティブな公平性の視点があるべきではないだろうか。

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強い者と弱い者がうまれてしまう通行空間において、それを調整することが、通行空間上のルールに求められるべき事ではないだろうか。弱者だから保護すべき、ではなく、そもそも強者と弱者の関係をなくしていく、公平にすることができないか。

幅員が狭く歩車道が分離できないとき、その空間を公平性を保ったままシェアすることはできないのか。

シェアするためには、1)交通主体同士が公平で、2)その間にコミュニケーションがあり、3)それは戦いではなくゆずりあいであること、が必要ではないか。

そして、その3点が自然に発生するような「ルールと空間」が必要ではないか。

私たちは、それを考えなければならない。

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我が国には歩行者保護を前提とした道路交通法によって、歩行者の通行権が保証されている。横断歩道で止まらない自動車が問題になることが、道交法違反の観点から問題視されてきた。こうした論調は、歩行者と自動車の戦火に油を注いでいるのかもしれない。